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Vリーグに至るまでのエピソード

5バレーボール人気、再び沸騰する

ロサンゼルスオリンピック

1984年(昭和59年)に、アメリカのロサンゼルスで、第23回オリンピックが開かれた。日本チームは、前回のモスクワ大会をボイコットした関 係で、2大会ぶりの参加となった。バレーボール男子は、岩島章博、杉本公雄、蘇武幸志、御嶽和也、三橋栄三郎、山田修司(以上富士フイルム)、川合俊一 (当時は日体大の学生・翌60年に富士フイルムに入社)、岩田稔、田中幹保(以上新日鐵)、奥野浩昭(サントリー)、下村英士(JT)、古川靖志(日本鋼管)が、中野尚弘監督の下に戦い、7位の成績に終わった。

第17回大会(1983年/昭和58年)から5連覇が始まっていた富士フイルムから6人(川合を入れると7人)が選ばれている。男子は、ミュンヘンオリンピックの金メダル以降、徐々に成績は下降線をたどっており、残念ながらそれは今日まで続いている。第26回オリンピック(アトランタ)からは、オリンピック出場さえ出来ず、連続3回予選敗退に終わっている。

女子は、石田京子、江上由美、小高笑子、利部陽子、杉山加代子、中田久美、三屋裕子、宮島恵子、森田貴美枝(以上日立)、廣紀江(当時は筑波大の学生、1988年(昭和63年)に日立入り)、大谷佐知子(カネボウ)、広瀬美代子(ユニチカ)が山田重雄監督のもとで戦い、銅メダルに輝いている。

日立単独チームに近い形であるが、日本リーグで88連勝中の真っ只中にあった事から考えると当然の選考の結果であった。女子もメダル獲得はこの大会での銅メダルが最後で、以後4位(ソウル)、5位(バルセロナ)、予選リーグ敗退(アトランタ)と下降線をたどり、シドニーでは初めて出場権を逃がすという屈辱も味わった。

しかし、アテネでは見事に予選を勝ち抜き、オリンピック出場の夢を果たした。

スポーツの世界にも商業主義の波

ロサンゼルスオリンピックは、スポーツに商業主義の大きな流れを生んだ特記すべき大会でもあった。

 

オリンピック開催国が国の威信をかけて過去最大の参加国数、参加者数を更新することが繰り返され、回を追って肥大化していき、その結果、かさむ経費を開催国が負担できなくなりつつあった。1976年(昭和51年)モントリオール五輪では、折から世界を揺るがせたオイルショックの影響もあって、当初予算の3億 2000万ドルを約10億ドルもオーバーし、そのツケは20世紀末まで高い税金を支払う形でモントリオール市民に回されたのであった。だから第23回大会開催地が1978年(昭和53年)に決定された時、立候補したのはロサンゼルスだけの状況で、その上「カリフォルニア州政府は1セントも出さない」という条例さえ作られたのである。

オリンピックは、クーベルタン男爵以来、アマチュアリズムをその中心において展開されてきた。今の若い世代の人には信じられないことかもしれないが、ス ポーツを手段として何らかの報酬をもらうことは、アマチュアとしては厳に禁じられていた。アマチュアが尊いものとして考えられ、オリンピック精神といえ ば、アマチュア精神と同義語のように思われていた。日本リーグおよびVリーグを通じて優勝チームに贈られるブランデージトロフィーにその 名を残す、アベリー・ブランデージは、第5代IOCの会長として1952年(昭和27年)~1972年(昭和47年)の20年間君臨したが、「ミスターアマチュアリズム」として有名で あった。

しかし、時代はすでに頑ななアマチュアリズムだけでは通用しなくなっていた。ブランデージが会長を交代するのを待つかのように、1974年(昭和49年)にオリンピック憲章から「アマチュア」の言葉が削除された。さらに、1980年(昭和55年)に第7代IOC会長にサマランチが就任して、変化は一挙に加速していった。サマランチ は、オリンピックを世界ナンバーワンのアスリートを決める大会として、アマチュア、プロを問わず最強の選手にチャンスを与えるとともに、オリンピックに商業主義を持ち込んでいった。

ロサンゼルス大会は、ちょうどこのような変化の始まりに開催された大会で、組織委員会の委員長になったピーター・ユベロスは、運営に多くの商業主義を積 極的に取り入れ、オリンピックを「お荷物の存在」から「儲かる存在」へと変えてしまった。このときから、オフィシャルスポンサー、オフィシャルサプライ ヤーという言葉が、全面的に採用され始めたのだ。ロサンゼルスオリンピックは、スポーツの世界に商業主義が急速に浸透していった大会として、記憶される大会となったのである。

スター軍団の誕生

いつの時代でも、スポーツのヒーローやヒロインはそのままスターとして人気を集めてきた。東京オリンピック金メダルの「東洋の魔女」に始まり、 ミュンヘンオリンピック金メダルの男子チームなどが国民的英雄として熱狂的な盛り上がりと多くのファンの支持を得た。ミュンヘン三羽烏と持て囃された横田忠義(松下電器)、森田淳悟、大古誠司(ともに日本鋼管)やプリンス嶋岡と愛称された嶋岡健治(日本鋼管)らの人気は、同時進行のTVアニメ「ミュンヘンへの道」などの効果もあり、金メダル凱旋によって一挙にスーパースターにまで上り詰めたものだった。

その後も、日本鋼管の花輪靖彦や松下電器の藤田幸光らが、ワールドカップでの活躍などで注目を集め、大きなブームをもたらし、華やかな人気を集めた。

しかし、富士フイルムが5連覇を果たした1985年(昭和60年)ころになると、強いチームの人気がそのまま選手の人気に直結する形で次々とスターが誕 生していき、スター軍団と呼べる状況になっていった。スポーツとメディアやコマーシャリズムとの結びつきが次第に強くなっていったのと無関係ではないだ ろう。ちなみに、JOCが選手の肖像を商業的に利用するプログラム(がんばれ!にっぽん!キャンペーン)を始めたのが1979年(昭和54年)のことである。サウスポーエースの杉本公雄がまず人気を集めた。次いで、三橋栄三郎、岩島章博、熊田康則、川合俊一らが、次々と登場していった。

「富士フイルム全選手写真集」が、某出版社から発行されるほどの人気を博し、富士フイルムの試合会場はどこも超満員で、人気選手がサーブをするときは、 「レンズ付きカメラ」のフラッシュがいっせいに焚かれ、異様な雰囲気をかもし出したものだ。

日本リーグでは、第15回大会から「バレーボールフォトコンテスト」を始めており、また「レンズ付きフイルム」は富士フイルムの開発ヒット商品であった。富士フイルム以外でも、日本鋼管の井上謙(順天堂大)や住友金属の田中直樹(日本体大)も大いに人気を集め、バレーボールファンを拡大していった。

ソウルオリンピック

1988年(昭和63年)のオリンピックは、経済成長著しい韓国のソウルで開かれた。1964年(昭和39年)の東京以来、アジアで2度目となるこ の大会に、男子からは、井上謙、笠間裕治(以上日本鋼管)、岩島章博、海藤正樹、蔭山弘道、川合俊一、熊田康則、杉本公雄、三橋栄三郎、米山一朋(以上富 士フイルム)原秀治(日本たばこ・現JT)、真鍋政義(新日鐵)が選ばれ、小山勉監督のもとで戦ったが、10位の結果に終わった。富士フイルムから8名が 選ばれているが、日本リーグの富士フイルムの5連覇は前年の1987年(昭和62年)までで、オリンピックの年は2位、翌年は4位、翌々年は5位と成 績を落としていっていることから見ると、ソウルオリンピックでは主力がピークを越えていたのだろう。

女子は、大林素子、川瀬ゆかり、杉山加代子、高橋有紀子、中田久美、廣紀江、藤田幸子(以上日立)、丸山由美(小田急)、佐藤伊知子、杉山明美、山下美弥子(以上日本電気・現NEC)滝澤玲子(日本電装)が代表となって、4位の成績であった。

相変わらず日立が主力を占めたが、前年の第21回大会(1987年/昭和62年)で日立の7連覇を阻止して悲願の初優勝を遂げた日本電気(現NEC)から3名が選ばれている。

日本電気(女子)の初優勝

日本電気が日本リーグに昇格したのは、1979年(昭和54年)の第13回大会のことである。昇格した年は、滑川玉江(共栄学園高)、吉永美保子 (佐世保商高)、北園いち子(高山高)らのアタッカーとセッター千葉泰子(尚絅女学院)らが頑張り、3位に食い込む善戦を見せたが、その後は4~6位と 低迷していた。第18回大会からアメリカ代表選手のローズ・メジャーズとスー・ウッドストラの2選手を補強したことで、一挙に上位に進出する力をつけてきた。特に、ローズ・メジャーズの活躍は目覚しく、猛打賞(第18回大会)スパイク賞(第19、20回)を取り、ベスト6(第19、20回)にも選ばれ、第 18、19回大会3位、第20回大会の準優勝の原動力にもなっていた。

第21回大会を迎えて、東北福祉大から佐藤伊知子、東海大から杉山明美が加わり、すでにリーグで活躍していた主将でエースの山下美弥子(六日町女高)、 セッター高野裕子(中村高)とともに、ローズ・メジャーズだけのチームではなくなっていた。

第3戦目に7連覇を目指す日立に1-3で敗れたが、その後は快進撃を続け、後半戦でもダイエーに苦杯を喫したが、2敗のまま最終週の3連戦を迎えた。一方 の女王・日立は、ユニチカ、カネボウ、ダイエーに敗れ3敗と星一つのリードを許していた。しかし、最終日に直接対決を残しており、セット率からも十分に自 力逆転優勝の可能性が残されていた。

3連戦をともに2勝して、結局最終日の直接対決に優勝は持ち越された。追う立場の日立は、前日のユニチカ戦を苦しみながらも逆転で勝ち、自力優勝の夢をつないだが、ストレート勝ちをしないといけない状況に追い込まれていた。

最終日となった2月7日の試合は、神奈川・大和スポーツセンター体育館で行われた。試合は、まず日立が1セット目を取って、逆転7連覇の夢をつないだが、 2セット目を15-7で日本電気が取り返し、この時点で日本電気の初優勝と日立の連覇阻止が成った。

MVPにはローズ・メジャーズが選ばれ、スパイク賞の杉山明美、ブロック賞のローズ・メジャーズ、レシーブ賞の山下美弥子、新人賞の佐藤伊知子とセッ ター高野裕子の5人がベスト6にも選ばれ、文字通り日立を女王の座から引きずり下ろした。

イトーヨーカドーの初優勝

第22回大会(1988年/昭和63年)は、日立とユニチカが14勝3敗で並んだが、セット率の差で日立が再び女王の座を取り戻した。ユニチカは直 前に行われたソウルオリンピック代表に一人も選ばれなかった悔しさをバネに、セッター中西千枝子(博多女商高)、エース樫野幸子(志知高・猛打賞)、本 郷友恵(金沢商高・レシーブ賞)らががんばったが、一歩及ばなかった。

なお、この第22~24回大会では、8チームによる2回戦総当たりの上位4チームが、さらに1回戦総当たりの成績を加えて、優勝を争う方式が取られている。第23回大会(1989年/平成元年)は、イトーヨーカドーが16勝1敗の好成績で初優勝を遂げ、前々年の日本電気に次いで女王の仲間入りを果たした。イトーヨーカドーは、昭和53年にあの東京五輪女子監督の大松博文氏を技術顧問に迎えて創部した新興勢力の一つであった。

日本リーグには昭和57年の第16回大会から昇格し、いきなり11勝10敗で4位に食い込んだ。新人賞に置田佳子が選ばれ、次の第17回大会では、セシリア・タイト(ペルー)が猛打賞を、置田佳子がサーブ賞をとって3位になったことは、前章でも述べた。

日本リーグ3年目の第18回大会から、外国人選手抜きの純潔路線のチーム造りに方針転向して、有力選手を次々と補強し始めた。第18回大会から登場した石掛美千代(氷上農高・第19、20回大会で連続ブロック賞)や第19回大会から入った甲斐千保(成安女高)、益子直美(共栄学園高・第19回大会新人 賞)、堀順子(成安女高)、そして第20回大会からは当時まだ練馬中の中学生だった斎藤真由美が加わり、第21回大会から高山佳代(長岡商高)と層の厚い チームに変身して行った。セッターは、置田に代わって金子志保(旭川実高)が入っていた。

第21回、第22回と連続3位のあとを受けた第23回大会では、開幕2戦目のユニチカに敗れただけの13勝1敗の首位で4強リーグを迎え、4強リーグも3 戦全勝を収め、通算16勝1敗の成績で2位以下を寄せ付けず、ついに初優勝の夢を実現した。MVPに選ばれた斎藤真由美は、まだ大宮中央高在学中の18歳であった。

こうして、日立の独壇場に日本電気、イトーヨーカドー、ダイエーなどの新興勢力が割って入り、リーグを盛り上げていった。

また、日立の大林素子、中田久美に加え、イトーヨーカドーの益子直美、斎藤真由美、ダイエーの山内美加らも大変な人気を集め、メディアでも盛んに取り上げられ、バレーボール人気は大いに高まっていった。男子でも、バルセロナ世代といわれるスーパースターが次々に登場し、折からのバブル景気にもあおられて、男女とも空前のバレーボール人気となっていった。